【長崎巡礼:感想文紹介⑤】Mさん

『SYM夏合宿in長崎に参加して』

今回も神様のお恵みで満たされたSYM夏合宿に参加できたことに感謝いたします。

そして3年ぶりのSYM夏合宿で、さまざまな懸念がある中で、数多くの方々が私たちの歩みに寄り添ってくださったことに感謝いたします。

泊まる場所を貸してくださった神父様方、各教会で暖かく迎え、お食事を作ってくださったり、差し入れのために待っていてくださった信徒の皆様、一緒に歩いてくださった方々、そして私たちに見えないところで、準備や祈りで支えてくださったり、ご寄付くださった方々、本当にありがとうございました。



3日間、徒歩で長崎の地を巡る中で、長崎という場所が神様を信じる人にとって特別な場所であることを改めて感じました。

美しい教会と自然の背後に、殉教と原爆という世界的に見ても特別な歴史があり、いかなる状況においても絶え間なく信仰の灯火が伝えられてきたのだと実感しました。

そしてド・ロ神父様や数々の殉教者のお話を伺う中で、その信仰強さを黙想すると共に、自分の弱さと小ささも思い知らされたように思います。

スタッフとして事前準備から参加させていただいていましたが、直前まで些細な不安と心配を抱いていました。

しかし気がつけば、全ての行程を完全な状態で終えていて、不安や心配が現実となる前に全て神様が私たちのために準備しておられることを体感しました。

思い返せば、夏合宿の企画が話に上がってからずっと、神様に用意された道のりを歩いていたように思います。


だからこそ、今回の巡礼のように自らの足で歩くことには特別な意味があると思います。

夏合宿のテーマである「歩きながら祈る、祈りながら歩く」のように、歩いている間に祈ったり、青年同士であるいは神父様やシスター方と対話することで、考えを分かち合ったり、時には一人で黙想したり、そういった時間を過ごすことはもちろんのこと、歩くということ自体が私たちの生き方を示しているように思えるからです。

神様が常に私たちのために道を用意してくれていることを信じ、そしてゴールに向かって同じ目的を持つ者同士が一緒に歩く。

それが私たちの人生そのものであり、だから自分の足を使って歩くことにより深い意義を見出すことができるように思います。

歩くことは、「地上を旅する巡礼者」としての生き方を新たに心に意識させてくれるように思います。


また弱さと同時に、自分の小ささを見つめる機会もありました。

最終日の夜、一人で星を眺めていたとき、心に暗い感情がありました。あまりに些細で馬鹿げた情念ではあったけれど、私自身にとっては大きいもので、そしてそれは星空の下では私をあまりにも小さく感じさせました。

自分の感じていることも、自分自身も、広い視点で見たら小さな一点であるはずなのに、心の中ではその暗闇があまりに大きいように感じました。

しかしその夜、星を見ているようで私自身の小ささを見つめ、そして星空の奥に私を造った神様を感じました。

自分の心の弱さを見つめることは、それをゆるし続けるものを見つめることであり、より偉大で美しいものに気がつくことでもあると思います。

外海の光る海を臨んで味わった遠藤周作の沈黙の碑「人間がこんなに哀しいのに 主よ、海があまりに碧いのです」という言葉の意味が少し解ったような気がしました。


私の些細な悩みは、とりとめもない感情に振り回されていたり、過去の後悔、悲観、そして人を羨んだり、見返りを求めたり、評価に対するものから来ているように思います。

そう考えると、ド・ロ神父様の生き方は、そういったエゴにとらわれず、そこに住む人々と、その中に生きる神様のために生きた人であるように思います。

彼は日本に来て、一度も祖国に帰ることなく、小さな村の人々の生活を豊かにする中で、人々の心も耕していきました。さらに今、その足跡を辿る私たちの心も豊かにしてくれました。

目立たない場所で、ひっそりと、人に評価されることや、見返りを求めることなく、ただ神を信頼し、人生を捧げる生き方は、強く心に深く響きました。


今回、事前準備から最終日の夜に至るまで、自らの生き方を見つめ直すための多くの気づきが与えられていたと思います。

長崎を巡り、偉大な宣教師たちや殉教者についてのお話を伺い、また私たちに温かく受け入れて下さった方々と出会う中で、小さな出来事一つ一つを通して、神様が語りかけていたように思います。


今回のこの全ての祝福された時間が、これからの歩みにも生かされていきますように。