総長「イエスがあなたの心を抱きしめてくれます」
11月10日(土)に開催した「第19回 SYMの集いスペシャル~総長と若者の集い~」で行った聖体礼拝の際の、フェルナンデス総長の説教です。
福音朗読箇所:ルカによる福音書24章13-35節[エマオでの弟子たちと復活のイエスとの出会い]
※当日の臨場感をお伝えすべく、録音をもとに、なるべく総長の発言(翻訳)に忠実にまとめています。
ご聖体の前での10分間の沈黙の前に、今読んだ福音について短い話をしましょう。
今日の福音箇所は私が選びました。なぜかというと、先ほど話したシノドスでこの福音がイコンとして選ばれたからです。この福音は、弟子たちが復活したイエスに出会うという場面です。皆さんもよく知っているかなと思います。3つの大切な瞬間があるんですね。
1つ目。イエスは最初に2人の弟子と一緒に歩き始めて、彼らの言うことを聞くんです。彼らが心に思っていることを話させるのです。これは私たちにとってのいいヒントになっています。他人のことばを深く聴くというこの歩みを、私たちもしなければなりません。
もう1つ強調すべき点があります。私が自分の召命の話をしましたが、全員自らに質問できると思います。今日までの道のりというのは、私だけでなく神様が一緒に歩いてくれたということです。私が気づかないように、彼が一緒にいてくれたのです。
彼らは家に着きます。弟子の2人はイエスに「一緒にお泊まりください。もう日も傾いていますから」と言います。イエスは最後の晩餐と同じように、パンとぶどう酒を一緒にいただきます。福音では、この瞬間に2人は彼がイエスだと分かったと書いてありますね。彼らは深いレベルでイエスだと分かったということです。彼らは深い体験をした。心の中で深いイエスとの出会いがあったということが分かります。
親愛なる若者の皆さん、教皇ベネディクト16世がこのように言いました。「キリスト教は哲学ではありません。原理でもありません。知恵を学ぶということでもありません。キリスト教はイエス、神との個人的な出会いの体験です」
一人ひとり問いかけるといいでしょう。自分の人生においてイエスと出会ったかと。私は自分の人生において、何回かイエスが一緒にいてくれたと感じることができました。本当に私は彼と一緒にいたということができます。というよりも神学的には、彼こそが私と一緒にいてくれた、もしくは、イエスが私の人生の中にいてくれたということです。
たとえ皆さんがキリスト教徒でなくても、自分の人生の中で神を発見できる、人生において神のための場所があるのだということ。こうしたすべてのことをイエスがきょう私たちに言ってくれています。イエス様が私たちと共にいたいということです。彼が、友である弟子たちにしたことと同じことを私たちにもしたいということです。
最後に3つ目のポイントです。彼らは家にいて寝るために幸せになったわけではありません。彼らは自分たちの体験したことをすぐにほかの人たちに伝えたいという気持ちになったのです。イエスが自分たちの人生にいたということ。その感動、確かさをほかの人たちに伝えたいと思った。自分の神との合一を分かち合い、伝えていきたい。自分の奉仕、人格をほかの人たちに捧げたい。自分の人生を愛しながら捧げていきたいと思ったのです。
皆さんにこれからの沈黙の中で味わうためのヒントを差し上げました。イエス様が皆さんの人生を抱きしめてくれるということを想いましょう。あなたの心を抱きしめてくれるということを想いましょう。
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